はじめに

小来川で言い伝えられる【三つの石の伝説と毒水】。

桜本院昌安というお坊さんが、無理な税のとりたてに小来川を訪れた際、住民の反感を買い従者や馬と共に殺されてしまった

という伝説です。

今でも小来川地区内では、殺された桜本院昌安を供養する行事が執り行われていて、また、昌安が実際に身に着けていた脇刺しやあぶみに関しては、現在では円光寺に寄贈され、大切に保管されています。

このことから、

  • 桜本院昌安という僧侶がいた
  • 何らかの理由で地域住民によって殺められた
  • その伝説の石が存在している

ということまではわかっているのですが、どこの僧侶なのか?なぜ小来川を通ったのか?なぜ殺されなければならなかったのか?という部分については様々な説があり、現在でも謎とされています。

このページは、【栃木県連合教育会 しもつけの伝説 第8集】に掲載されている『三つの石』より、お話を引用させていただき作成しました。
ぜひご一緒に考察・あとがきもご覧になってください。


小来川の昔ばなし

三つの石の伝説と毒水

栃木県連合教育会 しもつけの伝説 第8集より引用

むかし、日光山には、たくさんのお坊さんが住んでいました。

その中に、領内の村々から税金を取りたてる仕事をしていた、ひとりのお坊さん(桜本坊昌安)がありました。

このお坊さんは、日光の近くの村々を回っては、村人から税金を集めていました。

どんなに村人がこまってても、きちんきちんときびしく税金を取りたてるお坊さんなので、村人たちはたいへんうらんでいました。

ある年のことでした。

その年は、日光の近くの村々では、田畑の作物がほとんどみのりませんでした。

飢きん

それで、この山の中の滝ヶ原でも小来川でも、村人たちは、お金はもちろん、食べるものもなくて、くらしにこまっておりました。

そこへいつものように日光からお坊さんが、税金の取りたてにやって来ました。

お坊さんは馬に乗り、二人の弟子を連れて、山道をこえて滝ヶ原にはいって来ました。

そして、一けん一けんの家々をまわって、税金の取り立てをはじめました。

取り立て

くらしにこまっている村人たちは、どこの家でも同じように、このお坊さんに、

「わたしたちは、ほんとうにこまっています。どうか、こんどだけはゆるしてください、このつぎには、きっとおさめますから。」

と手を合わせてお願いしましたが、お坊さんは許してはくれませんでした。

泣いてお願いしてもだめでした。

お坊さんは、滝ヶ原の家々からむりに税金を取りたてて、こんどは、つぎの小来川の村へ向おうとしました。

小来川の村人たちは、伝え聞いて、お坊さんの来るのを知っていました。

それで、

「よし、日ごろのうらみをはらすのは、このときだ。」

と、みんなで相談をしました。

村人たちは、お坊さんたちが、一方は高い山、一方は深い谷川という恐ろしい山道に差し掛かったとき、山の上から大石をころがし落として、三人ともいちどにおしつぶしてしまおう、と考えました。

そして、山の上にたくさん集まって、お坊さんたちが来るのを、今か今かとまっていました。

こういうことを、すこしも知らないお坊さんは、弟子たちと三人で、その山道へ通りかかりました。

まちかまえていた村人たちは、三人の頭の上へ大石をごろごろと落としました。

石は地ひびきをたてて、いきおいよくころげ落ち、馬と二人の弟子をたちまちおしつぶしてしまいました。

しかしお坊さんだけは、たおれて死んだ馬にまたがったまま、落ちてきた大石に体をはさまれて、もがき苦しんでいました。

そこへ、山の上から村人たちが、どやどやとかけおりて来ました。

お坊さんに近よって、

「やい、坊主、おまえは今までわれわれを苦しめていたな。そのうらみ、思い知れ。」

と言いながら、おのをふりあげて、切り殺そうとしました。

すると、お坊さんは、顔色をかえながら、

「ちょっとまて。」

と言うのといっしょに、

「この馬と鞍は石になれ。われら三人はへびとなって、この沢に毒水を流してやるぞ。」

と言いました。

言い終わると、お坊さんは、たちまち村人たちに、おので切りころされてしまいました。

それからまもなく、お坊さんの言ったとおり、道の下の谷川の中に、馬が頭から背まで出した形の馬石と、道ばたには、蛇石と鞍石とができました。

蛇石

それからというものは、

①蛇石をひとまわりしてから、
②その近くに落ちている石をひろって、
③三回投げつけると、

きまったように、大きいへびが一ぴきと小さいへびが二ひき、蛇石のところから出てくるといわれています。

そして、この大きいへびは、ころされたお坊さんのたましいであり、小さいへびは、お坊さんの弟子のたましいであるということです。

また、馬石は、馬の頭のところがくぼんでいます。

そして、そこには、いつも水がいっぱいたまっています。

村人たちのあいだでは、だれ言うとなく、

「この水は、なんの罪もないのにころされた馬が、くやしさに目になみだをいっぱいためているのだ。」

といわれるようになりました。

毎年、冬になって、谷川の水のかれることがあっても、このなみだ水のかれることはないといいます。

あるとき、村人のひとりが、

「これはふしぎなことだ。よし、調べてみよう。」

と言って、なみだ水のあるところを、のみで切りつけてみました。

すると、その切り口から、まっかな血がどろどろと流れ出たので、おそろしくなり、途中でやめてしまったということです。

鞍石は、蛇石から200メートルくらいはなれたところにあって、道路から谷川のほうへつきでて立っています。

数十年前のこと―。

村人たちは、道路を広げるために、この石をばくはしようとしましたが、何回やってみても、どうしても石を割ることができなかったといいます。

それで、今でもむかしのままの鞍の形で、道ばたに残っています。

また、お坊さんがころされたときに使っていたという鞍が、大石につぶされてこわれたまま、今も小来川の円光寺に、大切に保存されています。

蛇石と鞍石のあいだの沢には、高いところから水が流れてきますが、これは、村人にころされた三人が、へびとなって流す毒水だといわれています。

この山道を歩く人たちが、ちょうどのどがかわいて、水が飲みたくなる坂道の上に、流れ落ちている水なのです。

しかし、どんなにのどがかわいて水がほしくなっても、村人たちは、

「この水には毒がはいっている。飲んではいけない。」

と言って、だれも飲まないということです。

この毒水が谷川へ流れ落ちる向こう岸は、はてしなく杉の林がつづいています。

そして、いつごろだれがつくったのかわかりませんが、お坊さんと弟子たちのお墓が、今でもこけむして、その林の中にさびしそうに立っています。

【栃木県連合教育会 しもつけの伝説 第8集】より引用


あとがき・考察

いかがでしたでしょうか??
一見、『無理な税の取りたてに腹を立てた住民による報復』というストーリーのようですが、他の文献では諸説あり、と書かれています。

例えば、【八木沢亨著 こどものための日光むかしばなし】では、

  1. このお坊さんは、ひじょうにつめたい心の持主でした。ですから、年ぐ(今のぜい金)の取りたてがきびしく、村人から恨まれていました。
  2. このお坊さんは、年ぐを集めたとちゅうだったので、その年ぐのお金をうばうために殺されました。
  3. このお坊さんは、日光山のお金を、壬生の殿様にとどけるとちゅうでした。壬生の殿様と仲の悪かった宇都宮の殿様が、そのお金が壬生城へ届いては困る、というので、村人を使って殺させました。
  4. このお坊さんは、日光山の出城だった、下野大沢駅近くの城山の城の殿様でしたが、戦争に負けて、日光山へ逃げ帰るとちゅう、落武者狩(土地の人が負けた武士を殺して、よろいや刀をうばう)にかかって殺されました。
  5. このお坊さんは、大へん頭がよくて、えらい人でした。そのころ、日光山にせい力あらそいがあり、このお坊さんがいるとまずいと考えた、反対がわのお坊さんたちが村人を使って殺させました。
  6. このお坊さんは、かげでよくないことばかりしていました。こんな者がいると、日光山全体のお坊さんの、恥になる、ということになり、村人を使って殺してしまいました。

と、実に6つの説が言い伝えられているというのです。

そこで、私は鞍と鐙が寄贈されている円光寺へ行き、ご住職にお話を伺ってきました。

謎 その① 桜本坊昌安は、誰だったのか

時代背景を鑑みると、桜本坊昌安は日光山のお坊さんだったようですが、日光山の文献にはそのような人物の記述はなかったらしいのです。
では、小来川を通ったお坊さんとは、いったい誰だったのでしょう。

謎 その② なぜ殺さなければならなかったのか

3つの石の伝説が存在し、なお今でも供養の行事が執り行われていることから、住民がお坊さんを手にかけてしまったことは事実だと思われます。
しかしながら、本当に税の取りたてが厳しく、その恨みからの行動だったのでしょうか??

謎 その③ 住民の行動の不自然さ

住民は昌安たちを手にかけたあと、鞍やあぶみを大切に保管し、また殺めてしまった場所で供養の石碑を立て、今でもなお供養の行事を行っています。
本当に恨みからの行動であるならば、亡くなった昌安らや持ち物をそのように丁重に扱ったりするでしょうか?

これらのことから、住民は、何か他に、”そうしなければならない理由”があったのではないでしょうか。

昌安を恨んでいる誰かが住民をつかって昌安を殺させた、住民はしかたなく手にかけ、昌安らを丁重に弔った。

こう考えると、不自然な行動にも説明が付きます。

しかしながら、物語の部分だけを見てしまうと、非道な住民の行動による恐ろしい事件という一面しか見えてこないのが残念でなりません。
今となってはどの説が正解かはわからず、この考察においても想像の域を出ません。

ぜひ、この物語を思い出すとき、また語りつぐときは、こういった背景があったのだと心の片隅にとどめておいていただければ嬉しいです。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

編集・画像制作

小来川地区地域おこし協力隊
上吉原 麻紀

参考文献・引用

  • 【栃木県連合教育会 しもつけの伝説 第8集】
  • 【八木沢亨著 こどものための日光むかしばなし】